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リー・マック・リトナー(Lee Mack Ritenour、1952年1月11日- )とは、アメリカ合衆国のギタリストである。カリフォルニア州ハリウッド生まれ。 ジャズ・フュージョン界で1970年代前半より活動している。ブラジリアン・リズムに影響され、自身のアルバムに取り入れられている物が多い。代表作に「''Captain Fingers''」が挙げられる。 == 歴史 == 6歳よりギターを始め、ウェス・モンゴメリーに大きく影響される。高校時代にセミプロとして活躍し、南カリフォルニア大学入学後、GRPレコードの設立者の一人でキーボーディストである、デイヴ・グルーシンと出会い、1970年代よりスタジオミュージシャンとして活躍し始める。1975年にはレコーディングに参加したミッシェル・ポルナレフのバック・バンドの一員(キーボードはデビッド・フォスター)としてツアーに参加している。 1970年代半ばに自身のグループ、「ジェントル・ソウツ」を結成、1976年にファースト・アルバム''"First Course"''を、1977年に初期の代表作となる''"Captain Fingers"''を発表し、自身の地位を確立した。このアルバムによりリトナーはキャプテン・フィンガーの愛称で親しまれるようになる。1978年にはデイヴ・グルーシンの弟ドン・グルーシン等と「フレンドシップ」を結成。1979年に以前より影響を受けているブラジリアン・リズムを取り入れたアルバム''"Rio"''を発表した。1982年には''"Rit"''を発表、このアルバムではエリック・タッグをヴォーカリストとして迎え、AORを取り入れて、よりポップな観点からフュージョンにアプローチしている。1985年にはイヴァン・リンスをゲストに向かえ、デイヴ・グルーシンとの合作''"Harlequin"''を発表。 1990年、ボブ・ジェームス、ネーザン・イースト、ハーヴィー・メイソンと共にフォープレイを結成し、1995年までに3枚のアルバムを発表。しかし、1996年に自身のレーベル「i.e.ミュージック」を新設し、プロデュース業で多忙になったため脱退せざるを得なくなった。後任にはラリー・カールトンが加入した。フォープレイに在籍していた間、ジャズ・ギターの偉人ウェス・モンゴメリーに捧げた、''"Wes Bound"''を1993年に、1995年にカールトンとの合作、''"Larry & Lee"''を発表。 1997年にポリグラムにi.e.ミュージックの経営主体に置き、ボサノヴァのピアニストでコンポーザーのアントニオ・カルロス・ジョビンをテーマとした''"A Twist of Jobim"''を始めとした、それぞれテーマを持った「''Twist Of ~''」シリーズを発表する事になる。2001年にはボブ・マーリーに捧げた''"A Twist of Marley"''、2003年にはモータウン・レーベルをタイアップした''"A Twist of Motown"''を発表した。2001年にはデイヴ・グルーシンと再び合作を作り、クラシック音楽をクロスオーバーした''"Two Worlds"''を発表、デッカからの発売となる。 尚、1998年にポリグラムはシーグラムに買収され、シーグラムのユニバーサル・ミュージックに統合し、i.e.はユニバーサルのジャズ部門ヴァーヴに編入される事になる。この傘下にはかつて所属していたGRPもある。 竹内まりや''"Beginning"''(1978年)、カシオペア''"Four By Four"''といった日本人の作品でも、リーのプレイが聴ける。 2005年にピーク・レコードに移籍し、ジェントル・ソウツのメンバーや旧知とのライヴアルバム''"Overtime"''を発表。同時にDVDもリリースしている。 私生活においては2005年5月に歌手の杏里と婚約を発表。7月に杏里がリリースしたアルバム''Sol''にプロデューサーとして関わった。しかし、2007年7月に週刊誌において破局が報じられ〔daily sports 杏里が婚約中の男性と破局していた 〕、2008年4月28日に杏里の公式サイト にて、公式に婚約を破棄したことを報じた。〔杏里がリー・リトナーとの婚約破棄を発表 〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「リー・リトナー」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Lee Ritenour 」があります。 スポンサード リンク
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